2015年 ライン、アルザスワイン街道を走る
これは、男性2人(60代と70代)、女性1人(ばば、筆者)60代が、ライン川に沿ってボーデン湖畔のコンスタンツからドイツのマインツまでの600㎞を9日かけて自転車で走った記録である。
1.成田よりチューリヒ
2015年9月2日、JAL407便 成田11:25発、フランクフルト乗り換え、チューリッヒ同日21:45着。
夜の9時45分にチューリッヒ空港についても、なんだかんだあるので、外に出られるのは11時近くになる。スイスフランに替えようにも両替屋は閉まっている。こんな時間に、しかも自転車の入っている袋を3つも積みこめる大型のタクシーはいるだろうか、「空港だもの、ないはずがない」と思ってもやはり不安だ。外に出ると、荷物番とタクシー探し係に分かれた。
ほどなく大型のバンのタクシーが見つかり、汚い自転車袋を快く乗せてくれる。ホテルの名前と番地を告げこれで安心と思ったら、人通りの少ない暗い街をぐるぐる回り続けるだけでなかなか着かない。薄暗いタクシーの中では、老眼の進んだばばは地図がよく見えず、うまくドライバーに示すことができない。支払いはユーロでいいと言ってくれるがメーターは上がっていく。タクシーの運転手なら駅そばのホテルは全部頭に入っているはずだと思い不安になる。同じところを行きつ戻りつ、そのうちドライバーはメーターを止めたので、ほっとする。日本から予約したeasy Hotel Zürichは、ようやく着いたというより見つかったという感じだった。料金は€70。ドライバーは肌の色からして移民の人だろうか、真新しい車から汚くて重い自転車袋を下してくれた。申し訳ない。
なかなか見つからなかったのはドライバーのせいではなかった。ホテルは街灯の少ない路地裏の間口の狭い古い建物で、深夜のせいもありあたりには人かげはなかった。ドアを開けると薄暗くて狭い通路のわきに、人が一人入ればいっぱいという大きさのカウンターがあり、その中でおねえさんが暇そうにしていた。チェックインを済ませ、これまた古くて狭いエレベーターに、輪行袋を縦にして乗せてすき間に体を滑り込ませ、ようやく部屋に着く。では明日また。おやすみなさい。
<好みのホテル>
航空券、ホテルの予約、保険は旅行代理店に頼んだ。部屋はシャワーとトイレがついていればシンプルでいい、つまり高いホテルはダメということで探してもらった。
ばばたちはこれから何年生きるかわからない。幸運にも長生きしてしまったらと考えると、今ここで無駄遣いはできない。だから旅にはできるだけお金をかけたくない。削るとしたらホテルの宿泊料金となる。
ベッドが狭くてシーツが湿っぽくても寝てしまえばわからない。窓を開けると隣の建物のシミだらけの壁が見えても、それにどんな問題があるのだろうか。シャワーを使うと洗面所の床が水浸しになっても、室内履きとして持ってきたビーチサンダルがある。以上はeasy Hotel Zürichのことではない。念のため。
2.コンスタンツよりシャフハウゼン
(9月3日 Konstanz → Schaffhausen 走行距離60km)
目覚めるとすぐにホテルの裏庭で自転車の組み立てをする。あたりをぐるぐる回ってみて、ブレーキのきき具合とギヤが滑らかに切り変わるかを確認する。持ち上げて10㎝ほどの高さから自転車を落とし、変な音がしなければ問題なし。荷物をつけると、もう電車の時刻が迫っていた。
朝食もとらずにチューリッヒ中央駅に向かう。ボーデン湖の西端のコンスタンツという町まで電車で移動だ。ここからライン川は始まる。駅に着くと、会計担当のばばは、切符を買うために、銀行にあるような機械から順番札を取り椅子に座って待った。いくつかある窓口の一つに自分の番号が表示されるとそこに行く。カウンターに持っていたヘルメットを置いて3人分の運賃105スイスフランを払おうとすると、自転車なのかと聞かれ、自転車持ち込み料金一台につき18スイスフランと言われた。日本円に換算すると結構な値段だ。そうこうやり取りをしているうちに、コンスタンツはスイスではなくドイツだということがわかる。うっかりしていたが、これからローカル列車に乗ってドイツに行くのだ。
乗る電車は9時37分発コンスタンツ行き。あらかじめヨーロッパ鉄道時刻表 ( EUROPEAN RAIL TIMETABLE )で調べてある。改札もなく、駅の構内やプラットホームを自転車をそのまま引いて歩くのは、何かいけないことをしているようでおかしな気分だ。
写真1 チューリッヒ中央駅
電車に乗ると、自転車を置いていい場所は車両の片端にあり狭くて(国や車両によって場所や広さは違う)すでにスーツケースと2台のベビーカーが置かれていた。両サイドにバッグを付けて幅広になった3台の自転車を乗せると通路はふさがり、体を横にしてやっと通れるという状態だった。
コンスタンツ着10:54。ここは湖のほとりのリゾートの町だった。もう昼近くになるが、とうとうここまで朝食を食べる機会がなかった。あたりにはパン屋もなく、湖畔を少し巡りようやく見つけたレストランには、なぜだか客が誰もいなかった。食べたものの印象は薄いが、3人で40スイスフラン、日本円にして一人2,000円以上したので驚いたことは覚えている。
食事をすませると、橋の下にある0のラインキロメ-ターの標識で記念撮影して、いよいよツーリングスタートとなる。この数字は、ライン川を下っていくにつれて大きくなっていくはずだ。
写真2 コンスタンツ
コンスタンツの町を出ればすぐにまたスイスとなる。ライン川の左岸に沿って川べりのサイクリングロードを快調に走っていく。ライン川が国境となることが多いらしく、渡ればドイツもどればスイス、渡ってもスイスなどと目まぐるしく変わり、そのたびにユーロ、スイスフランと通貨も変わる。
道路沿いにパン屋を見つける。食べたことのないおいしそうなパンが並んでいるので、3人ともパン屋が好きだ。店によっては、チーズやハムのスライスしたものを置いてあったり、ペットボトルの水も買えたりする。
パンを持って走ると便利だ。森や畑の中の田舎道を走ると、レストランどころか食料品店さえないことがある。そんな時、道端の木陰に座り、青空と見渡す限り海のように広がるトウモロコシ畑やブドウ畑をながめながら食べるのは気持ちがいい。
写真3 町のパン屋さん
シュタインアムライン( Stein am Rhein )で橋を渡って右岸に入り、シャフハウゼンに到着。予定は43kmだったが、なぜか道に迷い60km走ってしまった。しかし、迷っても途中の走り抜けた村々は静かで美しかった。村の通りの中央には決まって石造りの古い大きなバスタブのようなものがあった。花が飾られていて、蛇口から水がそそがれ、家畜の水飲み場なのかもしれない。
翌朝の散歩で、シャフハウゼンはライン川に面した美しい町であることがわかった。
写真 4 シャフハウゼンの町
3. シャフハウゼンよりコブレンツ
(9月4日 Schaffhausen → Koblenz 走行距離78km)
ライン川は、出発地のシャフハウゼンのあたりでは、浅くさらさら流れていたが、4kmほど下流に行くと突然大瀑布(ラインフォール)となる。入場料5スイスフランを払い、階段をどんどん降りていくと、滝の下に着く。白い水が恐ろしい勢いで落ちてきて、しぶきで体もカメラもぬれる。虹もかかり、滝壺まぢかまで行ける遊覧船が、大波に揺さぶられていた。ライン川が滝になるのは、後にも先にもここだけだった。
ボーデン湖からからずっとライン川は西に向かって流れていたが、シャフハウゼンの町で大きく曲がり、トイフェン(Teufen)まではしばらく南に向かう。その途中にこの滝があり、さらにその下手では巾着型になるまで蛇行して、トイフェンにくると再び西に流れる。このあたりでライン川はそうとう苦労して流れているのだ。行く手をはばむ岩盤でもあるのだろうか。
写真 5 ラインの大瀑布
人に出会うたびに、Please point the place where we are now on this map. と、bikelineの地図を見せてお願いするのだが、わからないとかこの地図には載っていないといわれる。まさかと思いながらも、30万分の1の地図を出すと、今はここにいると言われ驚く。ライン川から大きく南に離れ、しかも山越えまでしていたのだ。
しかし、迷っても天気も良く、牧草地の広がるのどかな丘陵をいくつも越え、小さくてきれいな村々を通り抜けることができた。このあたり一帯にサイクリングロードが縦横に走っているのも納得するが、ばばたちはそうとも知らず、他のサイクリングロードの標識に従ってしまったらしい。
コブレンツのホテルに着いたのは19時すぎで、あたりは薄暗かった。50kmの予定なら、いくら滝見物でゆっくりしていても、昼過ぎにはホテルに着くことができたはずだ。この日も、いい地図があるにもかかわらず、迷いに迷って78kmも走ってしまった。
写真 6 2日目の走行
そのわきを走り抜ける
4.コブレンツよりバーゼル
(9月5日 Koblenz → Basel 走行距離74km)
コブレンツを出ると、サイクリングコースは川べりすれすれのところを通ったり林の中を通ったりと快適だった。
昼食のためにパンでも買おうとスーパーに入ると、売り場の中にイートインコーナーがあった。席のそばには、日本にもあるような抽出タイプのコーヒーの自動販売機があり、ばばたちは、パン、ジャムのほかに、袋に入ったカット野菜、トマト、リンゴ、オレンジなどで野菜不足を補った。
写真 7 3日目の走行
昼食を終えてスーパーを出ると、小型トラクターが目の前を途切れることなく通っていく。小さな旗を付けたのもある。手を振ると、乗っているおじさんが手を振り返す。お祭り?それとも普通の服を着ているので農作業コンテスト?ついていきたい気がするが、時間がないので我慢。
バーセルに近くなると、カイザーアウグスト(Kaiseraugst)、続いてアウグスト(Augst)という町が出てきた。遺跡を示す道路標識も発見。英語で8月のオーガスト(Augst)は、初代ローマ皇帝アウグストゥスの名に由来するが、この町もそれに関係があるのだろうか。
bikelineの地図にひかれたサイクリングコースも、このアウグスタ ラウリカ遺跡に立ち寄っている。サッカーができるほどの広い草地に出ると、まっ平らの中に小さなでっぱりを発見。当時の邸宅の地下に作られた逃走用の通路の入り口にちがいない。3人は、階段を降りトンネルを通りながら敵が攻めてきて逃げ出す気分に浸り、モグラのように外に出てみると傾斜のある林の中だった。さらに、自転車に乗るか乗らないうちに円形劇場に遭遇。ところどころ修復して今でも使えるようにしてある。すり鉢型の劇場の中央に立ち、あたりに誰もいないか確かめてから、「あー」と叫んで声が通るか試してみた。3人は遺跡を堪能したが、ヨーロッパの南の方を旅するとローマ時代の円形劇場を目にすることがある。初めてではないが、それでも予定外のものに出会うと楽しい。説明板の絵を見ると、このアウグスタ ラウリカは、ライン川のほとりに発達した大きな町だったらしい。
帰ってからブログを見ていたら、くぐりぬけたトンネルの入り口にはKloakeと書かれていたらしく、ドイツ語の辞書で調べてみると、下水溝、くそつぼだった。
写真 8 アウグスタ ラウリカ遺跡
今日は遅くならないうちにバーセルに着くことができた。ライン川は川幅が広くなり、バーセルの町の真ん中を流れている。
ボーデン湖からここまで、ライン川は西へ西へと流れていたが、バーセルで90度向きを変え北に向かう。ライン川の橋のたもとにある今夜のHotel Ressliryttiはちょっと期待の3つ星だ。
写真 9 バーゼル
<大きな町の出入り>
街に入るとき、出るとき、必ずと言っていいほど時間がかかる。観光するのもホテルも旧市街だ。旧市街は建て込んでいて、城壁に囲まれていることが多く、また保存のために、建て替えたり建物を壊して道幅を広げたりはできない。
そうなると、旧市街のまわりにいくつも直線的に道路が伸び、新しく家が建ち、ビルが建ち、大きなスーパーができ・・・どこにでもある景観となる。旧市街に入るにはまずこのようなところを通り抜けなければならない。
こんな場所は地図があっても、特徴のある目印がなく新しい道ができていたりして、右に行ったものか左に行ったものか何度も立ち止まる。
旧市街と違って観光案内所もない。おまけに、道を聞こうにも人が歩いていない。ようやく高校生ぐらいの若者を見つけてたずねると、一生懸命考えてくれるのだが要領を得ない。地元に住んでいる若者にとって、旧市街には気に入った服を売っている店があるわけではないし、なじみのない地域なのかもしれない。
迷ったときは、見通しの良いところで、教会の尖塔が見えないか、まわりに比べて古い建物が密集しているところはないかと見回してみる。城壁に囲まれた旧市街は、敵が来るのがわかるように新市街よりも高いところにあるのも頭の隅に置いておくといいが、いつでもこれで成功するとは限らない。その街から出るときも同じ困難が待ち受けている。
5.バーゼルよりヌフ=ブリザックへ
(9月6日 Basel → Neuf-Brisach 走行距離72km)
バーセルの朝は小雨だった。まだ街並みが途切れないうちに、国境の人気のない検問所跡を通過してフランスに入る。
bikelineの地図は、ユナング(Huningue)でライン川を離れて、運河沿いの道へと誘導する。
このあたりで、ライン川から分かれた2本の運河がしばらくライン川に沿って流れている。地図で見ると右(東側)からライン川、まん中がアルザス大運河、左が一番細いユナング運河。この3本が、ほとんど間を開けずに並んでいる。カン(Kembs)で、ユナング運河はラインーローヌ運河と名前が変わり、右の2本の流れから離れて西に向かう。名前の通り、この運河はライン川とローヌ川をつなぎ、なんと、北海から地中海まで船で抜けることができるのだ。
出発してからずっと小雨だったが、本格的な降りにはならなかった。サイクリングロードが自動車道の下をくぐっているところで降りの様子を見ていたら、地元のサイクリストもやってきた。道を確かめ、持っていたぶどうをいっしょに食べた。
写真 10 ローヌ-ライン運河に沿って走る
この運河沿いのサイクリングロードを13kmほど走ると、視界が開ける。林を切り開いた所に高射砲と戦車が置かれ、記念碑はフランス語とドイツ語で書かれ読めないが、この狭い運河を隔てて第二次世界大戦のドイツ軍とフランス軍が戦ったアルド(Hardt)の戦跡ようだ。ドイツとフランスが接するこのあたりでは、何度も激しい戦いがあったのだろう。
写真 11 戦跡
ここからは運河と別れ、深い森の中にまっすぐに引かれたサイクリングロードを15kmほど走ることになる。誰にも出会わない。一人で、もしここで倒れたら何日も発見されないまま死んで行くかもしれないと思いながら、ノンストップで快調に走る。
続く17kmは、行けども行けどもトウモロコシ畑。地平線までトウモロコシ畑。その畑の間を、車のほとんど通らない道が通り、そのわきにサイクリングロードがきちんと作られている。誰がこんなにたくさんのトウモロコシを食べるのだろう。ウシ?ブタ?ニワトリ?これらが家畜のえさだったら、巡り巡って人間のおなかに入ることになる。すごいとしか言いようがない。
写真 12 ヌフ=ブリザックまでの道
平らな畑の中を走っていると、突然低い城壁が現れた。今夜の宿泊地、正八角形の要塞都市ヌフ=ブリザック、世界遺産だ。この要塞はルイ14世によって17世紀に作られた。街は八角形の城壁に囲まれ、その外側に三重に角度を変えて同じ形の堀がめぐらされている。
空堀なので街に入る前に降りてみた。今見えている景色が繰り返し8回現れるだけだとわかっていても、ばばたちは自転車で1周してみなければ気が済まない。そして、もちろん城門をくぐりヌフ=ブリザックの街の中に入った後も、城壁の内側に沿って念入りに1周した。
なぜこんなにきちんとした八角形なのだろう。ヨーロッパにはこのような作りの要塞の街はほかにもあるらしい。日本では函館の五稜郭がある。どれも平らな所にあるので守りが難しいが、星型にすることで接近してきた敵を2方向から挟むようにして攻撃できるそうだ。そういえば、まだかまだかとペダルを踏んでいると、突然木々の間から低い城壁が現れた。城(城郭都市)を目指していてこんな体験は初めてだった。
それからもう一つ発見。この街は鳥のように空から見るからきれいなのであって、そこに行っても人間サイズの視点では特別の街には見えない。あたりまえだ。
写真 13 ヌフ=ブリザック
6. ヌフ=ブリザックよりリクヴィル
(9月7日 Neuf=Brisach → Riquewihr 走行距離45km)
旧市街の広場では朝市が立つことがある。野菜や果物はもちろん、衣類などの店も出たりする。
朝市を見つけ、出発前に今日のお弁当として、リンゴ、バナナ、レモン、鳥の丸焼きを買った。改造した小型トラックの荷台で、串刺しにされたトリたちがゆっくり回転しているうちに焼きあがる。このときは、おじさんがたっぷりのフルーツ入りソースをかけてくれた。
ここから3日間はライン川から離れ、ストラスブールまで、アルザスのワイン街道を走ることになる。ヌフ=ブリザックの城門を出て、18km走るとコルマール。途中の村のパン屋さんでパンを買う。パン屋を見つけたら買うは、ばばたちのツーリングのお決まりだ。
写真 14 「おとぎの町」コルマール
おとぎの町コルマールの次に、シュバイツアーの生まれた村カイザースベルク(Kaysersberg)へ立ち寄り、博物館に入った。
その後、ブドウ畑の急坂を、はあはあ息を切らしながら登ってリクヴィルに着く。この小さな村の古民家をプチホテルにしたHotel De La Couronneに泊まった。
写真 15 カイザースベルグからリクヴィルへ
写真 16 「ブドウ畑の真珠」リクヴィル
写真 17 看板コレクション
<アルザスのワイン街道>
走行5日目で、ライン川から離れてアルザスのワイン街道へ入ったが、この街道は、ヴォージュ山脈の西斜面に広がるブドウ畑の中の小さな村々をネックレスのようにつないで、南北約170kmある。どの村もワインづくりに関係し、小さいので自転車なら数分で通り抜けられる。3人は、この街道をリクヴィルRiquewihrからオベルネObernaiまで2日かけてたどった。
村は静かで人気がなく、この家は何を生業にしているのだろうと中庭をのぞくと、決まって樽などが置かれ、小さなワイナリーだった。そしてどの村の窓辺も辻も街灯も橋の欄干も花々で飾られていて、絵の中にいるようだった。
写真 18 アルザスのワイン街道
< “フランスで最も美しい村” と “花まちコンクール” >
下調べで、ワイン街道の村の一つリクヴィルが「フランスで最も美しい村」と知り楽しみにしていた。静かで素朴な小さな村が想像され、はたして宿なんかあるのだろうかと心配したが、行ってみると観光客で大にぎわい。
フランスには、観光促進のために「フランスで最も美しい村」を認定する協会があり、基準を満たすように村中が協力して認定されれば、リクヴィルのように観光客がたくさん来て村がにぎわうのだろう。
帰ってから調べたら、「花のまちコンクール」というのもあり、住んでいる人たちが協力し合って、花で美しく飾り全国花委員会に評価をしてもらうそうだ。走っていると、村や町の入り口に「花のむら」とか「花のまち」(Village Fleuri, Ville Fleurie)として認定されたことを示す黄色い標識をたびたび見かけた。最高は花のマーク4つ。
写真 19 花があふれる窓辺や通り
ここまできれいに飾って絵のような景観を作るには、大変な努力が必要だろう。花の種類、色、植物の組み合わせなどのセンスや知識、そして植物は生き物だから、毎日、花がらつみに水やり、枯れたら植え替えなど細かい気配りが必要だ。村をあげて取り組んだ結果、こんなきれいな景観ができ、訪れる人を楽しませてくれている。
7.リクヴィルよりオベルネ
(9月8日 Riquewihr → Obernai 走行距離61km)
今日もアルザスのワイン街道だ。
この地方の9月は暑いのか寒いのかわからなかったので、セーターこそ持っていかなかったが、半袖に長袖にヤッケにダウンといろいろ揃えてしまった。その上、輪行袋がかさばり邪魔だった。特に輪行袋は、自転車で走っているときは全く不要のものだ。そして、荷物が多いと出発に時間がかかり、重ければ走りにも影響する。それに、荷物が小さい方がかっこいい。
3人とも何とかならないかとこれまで走って来たが、フランス語がわからなくても、「えい!ままよ」とついに意を決し、リクヴィルの次の村のリボヴィレ(Ribeauville)で郵便局に入った。結果は「なーんだ、もっと早くやればよかった」だった。郵便局のおねえさんたちは英語が話せて、見本の段ボール箱が大中小と並べてある。日本のゆうパックと同じだ。箱を購入して伝票を書き、最後に宿泊するドイツのマインツのホテルに送った。送料は1個 €21.20。そのホテルには連絡を入れておく必要がある。
写真 20 郵便局とまだまだ続くワイン街道
身軽になった3人は、ぶどうの収穫が始まったワイン街道を、鼻歌がでそうなほど快調に走った。ベルグハイム(Bergheim)、キンツハイム(Kintzheim)の村を通り抜け、少し下ってセレスタ(Selestat)の町に入った。
ここはちょっとした大きさの町で、いつものようになかなか旧市街が見つからない。人に何度も聞いて、ようやく由緒あるサン・ジョルジュ教会を見つけた。ステンドグラスが美しく、祭壇わきで男性が歌いながらキーボードでリハーサルをしていた。曲は「哀しみのソレアード」。教会内部によく響きわたり、思わず椅子に腰を下ろして聞き込んでしまった。明日が母親の命日で、ここでミサがあるのだと男性は教えてくれた。
セレスタは静かな町で、この町に入ってからは観光客を見かけない。窓辺にも花は飾られていないのが、かえって新鮮だった。新市街の公園のベンチで、持っていたパンや果物で昼食とした。ここで初めて自動販売機をみつけコーラを買った。
ふたたびワイン街道に戻り、ブドウ畑を抜け小さな村を抜けまたブドウ畑を抜けてオベルネの町まで走った。夕暮れにたどり着いたCitotel Les Vosges は、オベルネ駅前の古いホテルだった。
写真 21 リヴォヴィレからオベルネへ
8.オベルネよりストラスブール
(9月9日 Obernai → Strasbourg 走行距離51km)
オベルネの住宅地を、いつものように迷いながら抜けると、サイクリングロードはぶどう畑からトウモロコシ畑の農道に変わった。ワイン街道は終わりに近づいている。
ドリスハイム(Dorlishheim)を通り抜け、エルガースハイム(Ergersheim)まで来ると、古くなったフランスパンを水路の魚に投げている女性に出会った。ここからブルシ運河(Canal de la burche)に沿ったサイクリングロードに入る。
ここも林に囲まれ自然いっぱいで、水はゆっくりストラスブールに向かって流れる。ミレイの絵のオフェリアが流れてくるのはこんな川かもしれない。水鳥が泳ぎ、釣りをする人やサイクリングをする人にたまに会うだけで、夢の中かと思うほど気持ちよく走った。
写真 22 ブルシ運河沿いの道
ストラスブールの新市街が近づき水路を離れると、車、信号機、トラムが現れ、夢はたちまちさめた。ホテルに荷物を置いて自転車だけで旧市街を目指した。
大聖堂のあたりは観光客でごった返し、土産物屋が歩道まで品物を並べ、さっきまでとは別世界だ。大聖堂は下から見上げると首が痛くなるほど高く、これでもかとすきまなく装飾が施されている。
そのあと、自転車の盗難を恐れて交代で水路をめぐる遊覧船に乗った。そうしたのは、駐輪場の前で休憩していた時、停めてある自転車にはほとんど例外なく、バイクにつけるような頑丈なチェーン錠がかけられていたからだ。新しい自転車でも乗り古した自転車でも、乗ってきたおしゃれな女性でも、ごついカギをかけて立ち去る。盗難が多いのだろう。
泊まったホテルが新市街にあったので、ホテルから旧市街への行き帰りと、そして次の日も、Ville de Strasbourg et Eurométropoleと書いてある大きな建物の前を通った。ユーロの旗と各国の旗が立っていて立派だったが、事前に調べていかなかったので、ばばたちは勝手にユーロの本部だと言い合っていた。ばばは、そんなところのお手洗いをやむをえずお借りしてしまったが、帰ってから調べると欧州議会の建物だった。
夜は、いつものようにスーパーで買ってきた物をホテルのロビーで食べた。このホテルCerise Strasbourgは安いせいか、私たちと同様にスーパーの袋を下げて帰ってくる若者を見かけた。
写真 23 ストラスブール
<夜の秘密のパーティー>
このホテル以外でも、ばばたちは買ってきたものを夜の食事にすることがあった。お金の節約のほかにも、ホテルの部屋で食べる理由はある。レストランに入ってメ ニューを見てもわからない、頼んでもどんなものが出てくるのか心配、一皿の量が多すぎる、昼間の走りで疲れていてレストランを探すのがおっくう、服を持っていないのできれいな格好ができないなどだ。
そのかわり、途中で見つけたスーパーや食料品店に入り、実際にモノを見て買って食べるのは楽しい。そして、地元の人が食べるものは安くてはずれもない。おいしそうなパンやチーズやヨーグルト、ホワイトアスパラガスのビン詰め、変わり種のサラミ、レバーペーストを探し、ビタミン不足を補うために、リンゴ、トマト、オレンジ、カット野菜をかごに入れ、ついでに明日の行動食のビスケット、バナナ、水も買う。スーパーには、プラスチックのスプーンや紙皿も売っている。
それから、ワインも忘れてはならない。おいしいワインの見分け方は、陳列棚で残り数が少ない銘柄。レストランの十分の一の値段で手に入ることがあり、地ビールもあれこれ試せる。
それらを誰かの部屋にいすを持ち寄って食べる。部屋は隣なので、酔っても帰り道の心配はない。
9.ストラスブールよりマンハイム
(9月10日 Strasbourg → Mannheim 走行距離105km)
この日は、フランスのストラスブールからドイツのカールスルーエ(Karlsruhe)まで左岸を走り、そこから電車でマンハイムに向かうことにしていた。
ストラスブールを出ると、サイクリングロードは森の中をしばらく走る。
ライン川の両側は湿地が多く、住むには不向きのせいか森のまま残され、そこに整備された小道が通り、ベンチが置かれ、サイクリングやピクニックの場所となっている。
写真 24 森の中のサイクリングロード
森の中を8kmほど走ると土手が見えた。バーゼルからこの日まで、ライン川から離れていたので、土手に上がり久しぶりに対面すると、ライン川は水を満々とたたえる大河になっていた。堤防すれすれまで水が来てこぼれそうだった。
土手に307の数字のあるラインキロメーターの標識も見つけた。対岸にも同じものが見える。ライン川は、コンスタンツからここまで307km流れてきたのだ。GPSのない時代には、この標識は上り下りする船にとって重要なものだったのだろう。
水が堤防すれすれまで来ていたのにはわけがあった。すぐ下手に閘門があり、ライン川をさかのぼってくる船のためにちょうど水がせき止められていたのだ。
このあたりまで来ると、川を上り下りするコンテナをたくさん積んだ貨物船を目にする。国旗がついているので、どこの国の船かわかる。また、舳には決まって乗用車が1台積まれていた。停泊地でそれを使って用足しをするのだろう。
これだけのコンテナをトラックで運ぶとしたら、いったい何台必要なのだろうか。ライン川を使って運べば、交通渋滞や排気ガスの心配はない。
船と並走してサイクルメーターを使って割り出したところ、船の時速は下りで25km、船の長さは30mだった。
写真 25 久しぶりに見たライン川
その後またライン川から離れ、鉄道沿いの小さな村々を走り抜けた。
ひとっこ一人いない小さな村の辻で、右か左かまっすぐか、ばばたちが地図とナビとにらめっこしていて、ふと後ろを見たらバスが静かに止まっていた。運転手も乗客もみんなニコニコして気づくのを待っていてくれたのだ。
自転車トラブル、ケガ、天候の急変にそなえて、コース近くを走る鉄道がわかっていると心強い。ストラスブールとカールスルーエの間を結ぶ鉄道は、地図には線路の記号があるが、時刻表を見ても載ってないので、廃線の可能性もある。ホテルで聞いても駅で聞いてもよくわからない。
確認できないまま走り始めると、ヘルリスハイム駅(Herrlisheim)はこっちと標識があった。行ってみると無人駅。あたりは9月の強い日差しが照りつけるだけで人影がない。屋外に自動券売機を見つけ、どうやって使うのだろうと見てみると、太陽の光で液晶画面が見えない。
そのそばに、コインを入れるとドアが開くトイレがあり、一人が入った。が、そのあと出ようとしてもドアが開かない。閉じ込められたのだ。どうしたらいいのか聞こうにもあたりには人はいない。みんなで押したり引いたりしているうちにドアが開きほっとした。旅はプチ冒険だ。
電車が走っていることを確かめ走行再開。順調に自転車を走らせているうちにいつのまにか国境を越えてしまい、ドイツに入っていた。カールスルーエの手前15kmまで来たところで、渡し船を見つけた。ライン川を船で渡るなんて、こんな体験を逃してなるものかと、ばばとMさんはとびついた。冷静なKさんは船には乗らず予定通り左岸をカールスルーエまで行くことを提案。その方が道がわかりやすいのだが、2人はいろいろ理由を挙げていうことを聞かなかった。船は小さく、車が2台ほど入り、そのすきまに自転車や人が乗るようになっていた。
写真 26 渡し船
向こう岸に渡ってしばらく走ると、案の定、道がわからなくなった。カールスルーエは、ストラスブールに匹敵するほどの大きな町だったのだ。途中、何度もステーションはどこかと聞くが、どのトラムのステーションかと聞かれたりして要領を得ない。日がだんだん傾いてくる。
親切そうな夫婦が家の前に立っていたので聞くと、主人が裏から自分の自転車を出してきて、「俺についてこい」(ドイツ語だったので多分)というので、先導してもらった。駅まで続くサイクリングロードの入り口まで案内してもらい、そこからはまた3人で走る。しかし、走っても、走っても駅が見えない。申し訳ないと思いながらジョギングしている青年を呼び止めて聞いた。するとまた、「俺についてこい」(今度は英語だった)というので、さっそうと走る彼の後ろを金魚の糞の様についていくと、木立の向こうに大きくてモダンなカールスルーエ中央駅が現れた。
写真 27 俺についてこい
ドイツでは、日本のJRに相当する駅で大きなものを、中央駅Hbf(ハウプトバーンフォフ)という。フランスでは駅はla gare(ラガール)。プチ冒険をするには最低これぐらいは覚えておかなくてはいけなかった。なんでもステーションで押し通せると思った傲慢さを反省。そう言えば、昼間、行き止まりの道に入り込み、それを見ていた男性が「俺についてこい」(フランス語だったので多分)と車を走らせ、正しい道まで案内してくれた。
遅くなってしまったが、なんとかカールスルーエ発18:25の電車に乗ることができ、マンハイムに19:18に着くとあたりは暗くなっていた。
あの時、Kさんの言うことを聞いていて渡し船に乗らなければ、左岸を走って余裕でカールスルーエ中央駅に着いていただろう。
10.休養日 ハイデルベルグ観光
(9月11日 Mannheim連泊 走行距離0km)
長いツーリングでは、走行4日目あたりに連泊を入れて休養日とするのが理想なのだが、今回はこの日になってしまった。
自転車をホテルに置いて、電車でハイデルベルグ観光に行くことにした。だったら高速列車ICEに乗って行きたいとMさんは言い出す。乗ってみたい気持ちはわかるが、ハイデルベルグは小さな町なのでICEは停まらない。ならば、次に停まる駅まで乗って、そこで乗り換えてハイデルベルグまでもどればいいという。ハイデルベルグはマンハイムの隣町で、各駅停車でも10分ほどで着くのに、いくらなんでもそれはない。が、ばばも一瞬その提案も悪くないと思ったことを白状する。
ハイデルベルグ駅前のインフォメーションに足を踏み入れると、日本語が飛び交っていた。混みあっていて、その半分は日本人だったのだ。まわりの日本人から、ハイデルベルグ城へのお得な行き方を教えてもらい出発。
ケーブルカーで城に登り、これまでと違いゆっくり見学した。いい天気だったので眺めもよかった。薬事博物館のショップで、お風呂に浮かべて遊ぶアヒルのおもちゃを発見。どこにでもあるものなのに、ばばたちは孫のみやげとして購入。
ツーリングも終盤になると、次はどこを走ろうかという話が出てくる。メルヘン街道、ロマンチック街道、オランダなどいろいろ名前があがるが、まずは地図だ。ここは大学の町だから本屋も充実しているだろう。きっとbikelineの地図もそろっているに違いないと探すと、なんと地図専門店があるではないか。しかしbikelineは数点あるだけで欲しい地域のものがなかった。店の人に聞くと、そこを曲がるともう一軒地図屋があると教えてくれた。小さな町に地図専門店が2軒もあるのには驚いた。
写真 28 ハイデルベルグ
昼食は、地球の歩き方に載っていた伝統のあるレストラン ツム・ローテン・オクセンに入り、マッシュポテトとソーセージ、豚肉と酢漬けキャベツを注文した。自転車に乗らない日は、昼からビールが飲める。
連泊したにもかかわらず、マンハイムを観光する時間をとれなかったが、地図を見ると旧市街インネンシュタットは面白い形をしている。城壁が街を丸く取り囲んでいて、その中に縦と横の道が、定規で引いたように等間隔に走り、バドミントンのラケットの様だ。
それぞれのブロックには、アルファベットと数字の併記で名前がつけられていて、A1からU6まである。泊まったホテルLeonardo Hotel Mannheim City Centerの住所は、N6 3 68161 Mannheimで、N6のブロックにある。マンハイムの文字以外はすべて記号だ。
京都では、横に走る道には一条から九条まで数字がついているが、縦の通りは烏丸通や丸太町通りなどで数字ではない。それに比べると、マンハイムの場合は徹底して記号化されている。日本人からすればちょっと味気ない気がする。
11.マンハイムよりマンンツ
(9月12日 Mannheim → Mainz 走行距離90km)
今回のツーリングでは、雨にあったのは1日だけで、それも雨具を着るほどの降りではなかった。ずっと天候に恵まれていたが、それにもまして、この日はとびっきりの青空だった。
快適な左岸の川沿いをどんどん走る。土曜日なので、たくさんのサイクリストとすれ違い、子ども連れの家族も走っていた。
日本にもこんなサイクリングロードがあったらいいのにと思う。しまなみ海道など探せばあるが数が少ない。自転車を引いてホームを歩き、来た電車にそのまま乗せるなんて時代は日本には来ないのかもしれない。どこかの風光明媚なローカル鉄道で、一度サイクリストたちのためにトライしてくれないだろうか。
マインツに近づくにつれてぶどう畑がふえてくる。道もその中を通っていて、走っても、走ってもぶどう畑だ。アルザスのワイン街道でもそうだったが、穀物と違ってワインは飲まなくても生死にかかわらない。なのに、あちこちで、こんなに広大な面積を使って、こんなに熱心に作るなんて、人間はなんてことをしているのかと不思議に思えてくる。
今夜のホテルHyatt Regency Mainzは5つ星で、ライン川に面している。川に沿って走ればたどり着くので、今日は迷わなかった。予約を入れてくれた旅行代理店によると、マインツはここしか取れなかったとのこと。
ホテルに着くと、従業員の人が、ばばたちのほこりだらけの自転車にタグをつけ、うやうやしく奥の保管場所へと引いて行った。さすが5星だが、なんだか申し訳ない。
これで、今回の走行がすべて終わった。大過なく、ほっとする。
写真 29 マンハイムからマインツ
ブドウはドイツワインになる
14.ローレライを探す
(9月13日 Mainz連泊 走行距離0km)
走行は昨日で終了したので、もう走ることはない。今日は一日、ライン下りにあててある。日本にたくさんあるライン下りの本家本元、いざローレライだ。
ホテルの前に観光船乗り場がある。のんびりしていればいいのに、停泊している船を観察し、どの場所に座ると城やローレライの像がよく見えるか作戦を練り、3人とも早くから列に並んだ。
ねらいどおり最先端のデッキのイスを確保できたが、船が動き出すとまもなく霧雨。9月の半ばというのに寒く、傘をさしありったけのものを身に着けてその時に備えた。他のお客は次々と暖かい船室に移動していく。いくつかの有名な城を右に左に見ていくうちに、やがて船はローレライ像のあるカーブへとさしかかった。像は右岸にあり船の航行は左側通行。今かと思ったときに、川を上ってきた貨物船が、像とばば達の船の間に来てしまった。貨物船が通り過ぎた時には、もうローレライ像は岩陰の向こうなっていた。
しかし、ここであきらめては名がすたる。コブレンツ(Koblenz)の手前のボッパルト(Boppard)で下船すると、すぐさま上りの船に乗りなおした。今度は成功した。思ったよりも小さい。右岸の道を自転車で行けばローレライ像の近くまでいけそうなこともわかった。
写真 30 ライン下り
像が確認できればもう十分だ。次の停船場オーバーヴェーゼル(Oberwesel)で下船して、電車でマインツまで帰ることにした。
この小さな町は予定外だったが、駅までの道筋にある建物は古く修復もあまりされていないが、かえってそれがいい雰囲気を出していた。人通りも少ない。川沿いのいくつもある有名な城を確認するのもいいが、こちらも捨てがたい。
実は、ばばはこの数日のどが痛かったのだ。雨のライン下りで本格的な風邪になり、熱が出る寸前となっていた。ホテルに帰る途中に広場があり、異文化交流の学生たちのイベントが開かれていた。仮設のステージでは中央アジアの音楽と踊りが披露されていて、日本人学生のやっている模擬店で、おかかとゆかりのおにぎりを買った。
恒例の夜の秘密のパーティーには、ばばは不参加。大きなバスタブにも入らず、真っ白でふわふわのバスローブも使わず、そのままベッドに倒れ込んだ。せっかくの5つ星なのに。よく眠り、翌朝は二人に起こされた。部屋にあった日本茶のティーバッグと、イベントで買ったおにぎりがのどを通った。
15.フランクフルト空港へ
(9月14日 帰国)
幸い、ばばの風邪は朝にはなんとか動けるほどに回復していた。ホテルからマインツ駅へ向かう途中に、グーテンベルグ博物館があったが、月曜日で休み。
写真 31 帰国日
フランクフルト空港駅まで電車に乗り、空港の中を自転車を引いて歩いた。第2ターミナルにあるJALのカウンターまで行くには、空港内の循環バスに乗らなければならないが、それも自転車の乗車OKだった。
チェックインカウンターが遠くに見える広いロビーの隅っこで、自転車を解体してパッキングした。壊れたら帰ってゆっくり修理してもらえばいいので、帰りのパッキングは多少適当でもいい。
16.ライン川はこんな川
行きは、フランクフルトで乗り継いでチューリッヒまで飛んだが、ほぼその分だけ自転車でもどってきたことになる。
自転車のサイクルメーターによると、走行距離の合計は9日間で636kmだったが、ライン川べりに設置されたキロメーターポストは、ゴールのマインツで498kmとなっていた。走行距離の方が150kmほど長いのは、迷ったり、ワイン街道に寄り道したためだ。
スタートのコンスタンツの標高は400m、ゴールのマインツの標高は90m、その差310m。この区間でライン川は、500km流れる間に300mしか下っていない。日本の川と比べてなんとゆったり流れていることか。
ライン川は、このあとボン、ケルン、デュッセルドルフを経て、オランダに入りロッテルダムで北海に注ぐ。海まで走るとしたらあと1週間は必要だ。今回は使う必要がなかったが、bikelineの地図 Rhein-Radweg Teil 3 , Teil 4 の2冊には、残りのマインツから海までのコースが載っている。
そして、走り始めはボーデン湖からだったが、ライン川に沿って完全に走ることを目指すなら、Rhein-Radweg Teil 1によると、もっと上流のスイスのアンダーマット近くの分水嶺から走ることになり、さらに5日は必要となる。
3人は源流から海まで走るという目標を掲げなかった。体力に見合わない高い目標を掲げると無理が生じ、それによって危険も増す。今回は、ライン川の中ほどの変化に富んだおいしいところを走ったと思っている。
さて、次はどこを走ろうか。